彼(彼女)らが最初太もも展覧会を攻撃したとき

※追記

開催場所のゾーニングについては考慮するべきだったかもしれない。

 

「太もも展覧会 中止」

 

私はこのニュースで初めてそんな展覧会があったことを知り、中止になったのを残念に思った。

私はこの展覧会にも太ももにも興味は無いし、行きたいとも思わない。

 

しかし私は中止になってしまったのが残念で仕方がなかった。

 

__________________

 

多くの人から抗議の声が寄せられたらしい。

性目的の消費だのなんだの。

まあ結局のところ『私』が気に食わないからやめろということだろう。

 

私はこの理由でイベントが中止になってしまうことに強い危機感を感じる。

世の中の誰にも不快に思われない表現というのは不可能なのだ。

 

可愛い犬猫展覧会とかでも犬猫嫌いからしたらおぞましいイベントに思われるだろう。

世界の蛇展覧会でも蛇好きにとっては素晴らしく思えるが、そうでない人にはそうでないように。

 

「この場合は性的な問題だから違う」と思う人もいるかも知れないが、同じことなんだ。

色々な理由をつけたがるだろうが、モデルが同意したならそれは他の人が口を出すべきではない。

貴女はモデルではないのだから、貴女が無理やり撮らされたわけではないのだから、貴女にとっては絶対にやりたくないようなことであっても、文句をつける筋合いはない。

 

『私は太ももなんか好きじゃないから関係ない!』と思うのが一番危ない。

 

これがBL展覧会でも、生け花の展覧会でも、世界の靴下の展示でも、男性の鎖骨展示会でも同じこと。

人それぞれ好みがあり、不快に思う人もいるということに違いはない。

 

自分がそれの良さを【理解】できないのは全く問題ない自然なことだ。

しかし『否定』してはいけない。

自分が【理解】できないのを理由に『否定』してしまうのは最悪の行動だ。

私は世の中の差別はこれに起因すると思う。

 

私は太もも展覧会が好きではないし、好ましいとは思わない。

でもそれを好きだという人を否定はしない。

 

__________________

社会が最初太もも展覧会を攻撃したとき、私は声をあげなかった。

私は太ももが好きではなかったから。

 

ペット飼育者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。

私はペットを飼っていなかったから。

 

社会が妊婦を攻撃したとき、私は声をあげなかった。

私は妊婦ではなかったから。

 

そして、彼(彼女)らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

 

__________________

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

これはマルティン・ニーメラー氏のスピーチのパロディ(?)である。

 

これをセンスのないニーメラー氏への冒涜ととるか、なかなか面白いジョークだと思うか、どう思うかは貴方の自由。

 

でもどちらにしろ、それをやめさせる権利は貴方にはない。

 

※本文で出された例で気を悪くした方がいたら大変申し訳ございません。